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2004年 09月 21日
2334年5月、メルキア連邦軍による大規模な軍事介入によってクメン内乱は政治的な決着がついた。ムナメラ河上流に位置する、事実上最期の砦となった、カンジェルマン宮殿に集結した12000人以上の兵力に対し、メルキア軍は僅かな兵力で武力行使をおこなった。この戦いでのメルキア軍(クメン政府軍は除外)の死者は156名、負傷者は490名といわれている。この内乱は、戦争戦略に画期的な意義をもたらすだけでなく、世界史に大きな変化をもたらした。約20倍の敵兵数に対して、短時間で、さらに少ない犠牲者で政治目的を達成することができたからである。しかし、この紛争の本当の勝者は、メルキアではなく、この内乱を世界史に位置づける歴史家であるといえよう。
100年戦争で人口の半数を失い、2300年代の経済戦争でバララントに劣勢にあったメルキアが自信を無くしたことは記憶に久しい。しかし、メルキアの多くの企業家が100年戦争から得たヒントを実際のビジネスに応用していくことで、巨大な軍事産業国家として繁栄していくことになる。AT装備のオプション化、軍事衛星による巡航ミサイルの自立航法システム、マップ・マッチングシステム等、驚くべき開発力でバララントを脅かすことになった。同時に、公的機関とマフィアとのジジリウムによるマネーロンダリングが注目されたのもこの頃からである。 クメン内乱が持つ画期的意義は、謎が多く、完全に確定することはできないが、メルキアの自信回復として、物理的諸力としての「数」あるいは「量」の原則を崩したとことであろう。この後、バララントの戦争戦略も、主力機であるファッティのオプション装備化、PS計画の着手等、大きく様変わりしていることからも否定できない事実である。 また、今回の内乱の、もう一つの特徴として一斉に報道規制がひかれたことが上げられる。クメン政府軍は、作戦中の報道関係者を完全にシャット・アウト。内乱の状況等は政府が発信する情報に頼るしかなかったのである。しかしながら、クメンの歴史の肝であるメルキア連邦からの独立を無視するかのように、メルキア軍が介入し街を統治したり、戦闘を行うなどして民衆は再び支配下におかれるのではないかと困惑ぎみであった。*メルキア連邦は、クメン支援のために政府軍に依頼派遣されたものとしていたが、軍事介入していたことは明確であり、証拠となる写真も数多く存在する。 これは、言論を武器にするジャーナリズムにおいて、真摯に自らの役割を考える人間、またクメン王国の民衆から「情報が伝わらない」との声が上がり、メディア・リテラシーとしてのNIEやメディア教育にも注目が集まった。何故なら、反政府軍もまた、旧来の王族がバンヌー教を持ち上げ論点を摩り替えていたからである。これを戦略として「国民が情報を読めなくなる」状況を、ほくそえんで情報操作をしていたのが、クメン政府軍の新生貴族、有力企業家とメルキア政府関係者であった。クメン王国の近代化を“指標”として長年手がけてきた「愚民化政策」が功を奏してきたからだ。結果、メディア・リテラシーなるものが、有効に適正かつ的確に操作されたのである。 クメン内乱に溢れていた「情報をどう読み取るか」。 情報があまりに多すぎて「受け取り手」に混乱が生じたクメン内乱。しかし、政府軍が情報を湾曲させようが、新たな情報が世に出ることも事実であり、情報が情報をつくりさらに情報が生まれる。これは、皮肉にも「送り手」が正確な情報を送っても、きちんと受け取られない可能性があることを意味するのである。
by mdsf-ss
| 2004-09-21 22:50
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