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2004年 07月 21日
神なき思惟
クエント事変後、ワイズマンを失った秘密結社はこれまでの解釈史を下記のとおり述べた。 「神を放棄せねばならない神なき思惟のほうが神的な神により近い」 神なき思惟のほうが、神的な神により近い。 それでは、その神的な神についてキリコ(神の子)なき思惟は如何に思惟すればよいのか? 秘密結社は、その先については何ら語らず沈黙することを選んでいる。 しかし、宗教結社であるマーティアルは秘密結社が真の意味ではまだ沈黙していないと言う。秘密結社は、死滅したワイズマンの神学を模倣とし受け継ぎながら、なお、ヤーダル碑の掲示の中に潜む決定的な問題点(*3)を執拗に言及していると指摘。 *3 秘密結社によると、ヤーダル碑はマーティアルにより発見されたものであるが、碑を建てたのはワイズマンの創始者「異能者」であり、マーティアルの「原始宗教」ではないと主張している。 マーティアルの見解 ヤーダル碑の掲示において、神の「存在」は最高の類概念である。 従っていかなる対象でも(それが存在している限り)「ある」という述語をつけることができる。この思惟は、「ヤーダル碑は神の掲示であるか」という問題に関しても有効である。何故なら「ヤーダル碑」は「神の掲示」の補助部類であるため「そうである」と思惟することができる。 しかしながら「ヤーダル碑は異能者の原始宗教」という問題を思惟した場合、この考え方では答えを出すことができない。 この場合、「ヤーダル碑」が「存在者」というカテゴリーに属するかどうかそれ自体が問題であり「ヤーダル碑は存在するか」という問題に答えるにはその主語「異能者」について、「異能者」は「存在者」に属するかという問題に答えなくてはいけないため、この問題は永久に循環してしまうのである。 7214年以降、上記の見解により秘密結社は徹底的な追求を受けている。 しかし現象学的(マーティアルの教義は旧来の異能者と同義である)には避けらず、こうした宙吊りは神学的には「原始宗教」に先立つ審級故、偶像性が出現しうる審級を含意している。 また、この宙吊りはそれ自体としては「碑」に対して外在的であるが故に先行的な視点によって「異能者についての」一切の存在的立場を宙吊りする志向を含意しているのである。 メルキア星の宗教分布図 *ギルガメス銀河においてマーティアルの信仰は拡大を続けている。 *秘密結社は、神官組織に政治家、軍人、商人と表の世界においても高い地位にいるものが多いといわれているが未だに謎が多く上記の分布図の数十、数百倍はいるといわれている。 キリコ・キュービー 「秘密結社の存在論」と「マーティアルの神論」との「ボーダーライン」において思惟すること。 秘密結社の存在論を迫害し続けるマーティアルの神論そのものが旧来の「異能者」の教義と同じ提唱を続ける中で、両派のボーダーを揺すものがワイズマンによって造られたアノマリー「キリコ・キュービー」であることは否めない事実である。 ボーダーラインとは、不可侵宙域のことではない。 我々の足がそれを踏み越えれば、同時にボーダーラインもまた広がっていく。あたかも自分で自分の影を踏もうとするかの如く。 結論。キリコという存在こそが「神と存在の関係」を思惟する行為としての、単なる存在論、神論の限界上で思惟できるといえよう。また、そうした思惟によってはじめて「キリコ」という神にアプローチできるのではなかろうか。
by mdsf-ss
| 2004-07-21 10:59
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